信じてきたものの揺れに向き合う勇気をもとう
答えを出さない本に、なぜ惹かれてしまうのか
『「核」論――鉄腕アトムと原発事故のあいだ』がかなり良かったので、感想を書く。
文章そのものが好きだし、読み進めるほどに味が出てくる。結論を急がず、何度も行き来しながら考えさせられるため、また読み返したくなる本だった。
なお、増補版は『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』というタイトルで刊行されている。
『おしゃれ』にも正解を求めてしまう私たち
年始早々、本を整理するついでに「本棚をおしゃれに見せる方法」を夫と検索していた。
おしゃれなど本来は個人の主観に過ぎないはずなのに、世の中には妙に納得感のある論理で説明してくれるコンテンツが存在する。たとえば「飾りは存在感のあるものを、余白をもって配置する」といった具合だ。私たちはまんまとそれを採用したものの、結果としては特段、以前と大きく変わったわけでもない。
なぜ私たちは、こうして何度も「正解」を探しては失敗するのだろうか。思い返せば、これは今に始まったことではない。とりわけ社会科学の領域には、そもそも正解など存在しなかった。
大学院生時代、ゼミで議論すればするほど迷宮入りしていくあの空間の居心地の悪さ。自分の発言に誰かがうなずいてくれたときの、あの奇妙な快感。そうした経験が、「納得すること」への過剰なこだわりを生み出してしまったのかもしれない。
社会人になってからの三年半を振り返ると、意外にも「納得できる正解」が見つからないまま前に進む場面が多かったように思う。「頑固系OL」というタイトルを自称している割にキャラクターが迷走しているが、大企業の新卒社員であれば、ある程度は仕方がない。
もっとも、自分自身にその自覚があったかといえば、必ずしもそうではない。正当化しないことへの恐れがあったし、納得しなければ手を付けない姿勢こそが、自分の思考の深さであり強みだと思っていた。割り切って物事を進める周囲の人たちは大人に見えた一方で、どこか面白みのない存在にも映っていた。
「社会は『信じてしまっているもの』の上に成り立つ」
しかし、この本を読んで考えが変わった。
彼らの中には確かに割り切っている人もいるだろうが、実際には「居心地の悪さ」と向き合い続けた末に、あの立ち位置にいる人もいるのではないか、と。
著者は原発問題に対して、明確にニュートラルな立場をとっている。ただしそれは、結論を先送りにした態度ではない。むしろ徹底して冷静なのだ。
感情をむき出しにする反対派に対しても、本来断定などできないはずの原発の安全性に、どこか諦観を帯びた線を引く推進派に対しても、著者は等しく「共感できない」と述べる。
結局のところ、私たちは皆、どこかで割り切っているのかもしれない。
所詮は他人事なのだ。
その意味で、憲法九条や防衛の問題は典型的だ。
私たちはどこかで、自分たちが攻撃されることはないと信じている。その不確かな「信頼」を支えているのは、戦後から今日までの日本の歩みの記憶であって、未来そのものではない。それでも私たちは、過去と同じ延長線上の未来が続くと信じて疑わない。お金も同様に、こうした「信頼」が社会の基盤を成している側面があることを、著者は指摘する。あまりにも図星で、少し自分が信じられなくなりそうになる。
著者は、こうした主張の根拠のあいまいさから生まれる認識や思考の差を「振幅」と呼ぶ。
振幅はとらえるものではなく向き合うもの
原爆を経験した国でありながら、JCO事故において高濃度の核燃料がバケツとひしゃくで扱われていたという事実は、にわかには信じがたい。だがそこには、確かに大きな振幅が存在している。
この振幅が生み出しているのは、単純な「感情的な反対派」と「功利主義的な推進派」という対立構図ではない。
私たちは日常生活の中で、この振幅の存在にほとんど気づかない。そのため反対派は、うまく説明し説得さえすれば脱原発は実現できると期待するし、実際に起きた事故は格好の説明材料となる。反対運動が盛り上がるほど補償金が地域に落ちる構造は、今も昔も変わらない。
このように原発をめぐる利害関係者は文字通り複雑に絡み合っており、本来であれば振幅を自覚し、建設的な議論を行うために用いられるべき客観的視座は、その構造を理解し、利用するために注がれている。彼らは達観した口調で「合理的」な説明をするのだろう。
それを目にした私は、「彼らは割り切ってそう説明しているのだ」と感じてしまうかもしれない。しかし、もし彼ら自身が高度なメタ認知のもと、自分なりに納得できる論理で語っているのだとしたらどうだろう。彼らの言動が、極めて個人的でありながら合理的だとしたら。
そう考えると、私が正解にたどり着けないのも無理はない。私自身もまた、客観的に見ているつもりになっているだけなのだから。
大学院時代にお世話になった先生の「『わかった』と思うほど危険なことはない」という言葉を、私は社会人になってからも大切にしてきたつもりだ。
正解を明快に導き出せない居心地の悪さと、これからも向き合い続けなければならない。複雑さを引き受け、それでも考えることをやめないこと。いつか互いに、その複雑さを受け入れられる日が来るまで。
