頑固系OLのおっとりな本棚

頑固な思考から解放してくれるような本との出会いをマイペースに紹介

「温かいテクノロジー」が照らす未来をのぞいてみた

久しぶりにブログ編集ページを開くと「AIタイトルアシスト」たるタブがお出まし。

いつからこんなんあった?なんでも本文作ると内容に合わせてタイトルを作ってくれるのだとか…採用するかどうかは最後のお楽しみ。(結果:広告みたいな言い回しだったので不採用に)

 

最近Excelで関数を組みたいときはもっぱらChatGPTに頼っているが、さすがに何も知らずにAIをこき使うのはいかがなものかと思い、文系にもわかりそうな本を買ってみた。これが大当たりだったのでシェアしたい。

■AI搭載型「温かい」ロボットの開発者のエッセイ

子どもやペットがいないご家庭の新たな家族として注目を浴びている「LOVOT(ラボット)」をご存じだろうか。一般的にイメージするロボットと異なり、触ると温かく、愛くるしい動きとコミュニケーションで周囲との温かな関係を構築ことができるAIロボットである。著者がなぜLOVOTを開発するにいたったのか、周囲のAIに対する期待や不安にどう答えていくか、エンジニアの熱意と苦悩が垣間見えるエッセイとなっている。AIの特徴が分かりやすいだけでなく、自分自身の生き方やAIとの共存についてとても考えさせられた。

 

■なぜ温かいテクノロジーなのか

AIを作るというと、計算が早くできるようになったり、大量のデータから何かを取り出したり、人間にはできないことをできるようにプログラムを組むものというイメージを持っている人が多いと思う。そこには生命としての人間とは重なるところがほとんどなく、「温かさ」が入る余地はなさそうに思える。AIというと生産性向上のために開発されるのが多い中で、家族としてロボットを迎え入れるなど一部のもの好きがすることと思っていた。「それってなんの役に立つんですか」とコメントする投資家がいるのもわかる気がする。雇用を奪われるのではないかといったAIに対する漠然とした不安も私の中にあった。

しかし、著者は「温かい」テクノロジーを実現させることにこだわっている。生産性だけが人類を幸せにするのではない。人類が将来への不安を取り除き、誰もが自分らしく、存在意義を見失わずに幸せに生きるためには、失敗を恐れず挑戦することでやればできるんだと実感できることが重要。そのサポート役ができるAI、すなわちこれまでのAIのように冷静さや完璧さを追求したものではなく、自然体でどこか弱さもあり、人間のやさしさや気づきを引き出す「温かさ」を持ったAIの開発を著者は目指している。

 

■AIを開発することは人間のメカニズムを探ることと表裏一体

著者はLOVOTを温かいロボットにするために、「愛とは何か?」「感情とは何か?」「生命とは何か?」「社会とは何か?」「多様性とは何か?」「幸せとは何か?」と、一見哲学的にも思える壮大なテーマを分析を行っている。著者の分析を見れば、確かに温かいテクノロジーは人間の将来への不安をぬぐい、幸せな社会にしてくれそうと感じさせられる。

心理学をはじめとする専門家の意見も踏まえた著者の考察は、サブタイトル通り私たちを知的冒険にいざなってくれる。どれもおもしろかったが、例えば「命とは思い入れである」「感情とは相手の反応を見た自分の主観」というように、人間の思考や感情、判断について、どうしてそのように進化したのかを分析されていてかなりアハ体験だった。このプロセスにおいてはメカニズム的にとらえるのが憚られる部分があるので「冷たさ」を感じることもあるが、対話で違和感のないロボットを作るには人間のメカニズムが重要なんだとわかる。それと、ドラえもんは人間界にいても自然体で、のび太に何かを押し付けるわけでもなく気付きを与えてくれるところがAIとしてとても優秀であることもよくわかった。

 

■メカニズムがわかると不安は期待になる

「AIに職を奪われるのでは?」「こんな機能のためになぜここまでコストをかけるのか?」― 現在多くの投資家や消費者が持つAIへの期待や不安は、「温かい」テクノロジーを実現を妨げかねない。著者が言う通り、失敗を恐れず信じて前に進む社会がいいなと思うし(自分もそうありたいと思った)、一歩踏み出す自信を持つためには、物事の本質やメカニズムを丁寧に分析していくことが大事だと痛感した。この本はその分析するプロセスの面白さも伝えてくれている。そんな骨の折れる分析を通して著者はAIと人類が共存する方向性を提示している。ぜひ多くの人に読んでもらいたい。

みんなの素朴な疑問に丁寧に答えていく著者の謙虚な姿勢や、良い社会にしたいという熱意とやさしさがにじみ出た「温かい」エッセイだった。困ったことにLOVOTが欲しくなってしまった…(1体50万円)

『問いのデザイン―創造的対話のファシリテーション』

最近ファシリテーションをする機会があったので迷ったがこの本を読んでみた。

特に「問いの立て方」を深堀しつつプログラムの立て方全体が網羅的にカバーされていて、これまで読んだファシリテーション関連の本の中でも満足度が高かったし、今すぐ実践したくなったので紹介。

ファシリテーションだけでなく、会議や自分の思考をめぐらすときにも役に立つ内容。

◆問いかけ方で固定化された認識と関係性をほぐし、創造的な会議・ワークショップに

Appleが「スマホに説明書は要らない」という新たなアイデアスマホを幅広い層に普及させたように、ビジネスで勝っていくには自分たちの考えや当たり前となっている価値観の前提を疑い、他にはない課題解決を模索しなければならない。

しかし、同じ会社で働いていても人によって課題の見え方は異なってくるので、解決すべきことも異なっていることが往々にある。また、疑うべき前提に気づいていても、「あの人に言ってもしょうがないしな…」といったチーム員の関係性上の問題で、根本的な解決に向かないこともある。

そこで、お互いの前提や価値観を共有し、そこから共通の意味を見出していく対話の場を通じて、新たな価値観や関係性を作っていくことが重要である。

 

◆問いの立て方を意識することで参加者の感情や思考を揺さぶる

固定化された認識と関係性を解きほぐし、創造的なコミュニケーションの場を作るには「問いのデザイン」、つまりどのような問いをどのような順番・タイミングで投げかけるかがカギだと筆者はいう。

なぜ問いにフォーカスするのか。例えば、「居心地の良いカフェとは?」という問いかけよりも、「危険だけど居心地のいいカフェとは?」という問いの方が、いつもと違う思考回路でワクワクしながら取り組むことができる。

このように、問いは人々の感情や思考を左右するものであり、逆に言えば問いをデザインすることで参加者の価値観の前提に揺さぶりをかけ、新たな発想やワークへのやる気を引き出すことが可能ということだ。

関係性をフラットにする工夫もできる。こちらが答えを用意したうえで質問するのではなく、対話の中で出てきた素朴な疑問をファシリテーターから「あれ?これって…」とぶつける方が、予期せぬ答えからファシリテーター側も学ぶことが出てくるなど、学びあえる関係性を築くことができる。

 

◆これまでのHow to本では気づかなかった問いの重要性

こういったファシリテーション上の問いの立て方については盲点だったと思う。ファシリテーションの経験がある人の中には、認識や関係の固定化については理解していたものの問いに落とし込んでおらず、ただ参加者に「前提を疑っていきましょう」「フラットに、リラックスして意見交換しましょう」と‘’意識づけ‘’するだけで問いで促すことはしていない人も結構いるのではないかなと思う。ファシリテーションはその名の通り、司会進行とは違って促すことが大事なのだから当たり前でもあるのだが、問いに注目することで促し方がかなりクリアになる。

例えば、グループワークであまり発言していない人がいたら「●●さんご意見ありますか?」という聞き方が一般的だと思うが、これだとただの司会進行である。なんでこの人は発言できていないのか、どんな質問だったら答えやすくなるか、積極的に参加してもらえるか、と相手の立場で考えて具体的な質問をしなければならない。ワークの内容に納得していないかもしれないし、ただ問いが難しいだけかもしれない。そこを柔軟に問いでフォローできるかどうかがファシリテーターの腕の見せ所といえる。

 

◆この本を活かすには練習が必要

この本は課題設定のところからWSのワーク内容の設計、本番の対応まで問いの立て方にフォーカスしつつ解説されている。どれもかなり実用的なフレームワークになっていてすぐに実践できそうである。ただし、かなりポイントが多いので様々な機会で何度も実践を通して練習しなければ習得できないと思う。まずは自身の目標立てだったり、チームとの会話の中で実践しつつ、ワークショップの開催時にもこの本通りに進めるようにしたいと思う。

 

『メガリスク時代の「日本再生」戦略』

物価上昇が著しい。

12月くらいまでリーズナブルだったみんな電力からの請求も、ヒーターを使いだしてから少しずつ上がり、4月からは1.5倍くらいの単価になるとのこと。

一方で九州では太陽光の出力抑制(電気が余っているので発電をしないように指令が出される)がまだ3月なのに始まってしまった。電気が足りないんだか余っているんだか。

 

この本は分散型エネルギーを活用した日本再建がテーマ。新型コロナの問題も扱われているとのことで、エネルギー政策とどこに関係にあるのか…と不思議に思っていた。

出版されてから日は経っているが、エネルギー危機にある今こそ読んでおきたいテーマ。

次々に暴かれる日本社会の闇に失望感がのしかかるが、各地域の実践例たちがこっちへおいでと優しく未来を照らし手を引いてくれるような、そんな金子先生ワールド全開なところがお気に入りの1冊。

 

テーマとなっているのは、リスクに備えられる日本に変える提案。日本がトラブルに巻き込まれた際にこれまで取ってきた対応は根本的解決に至っておらず、その原因としてリスクへの備えられる分散型社会の構築が遅れていることが指摘されている。

リスク対応については、まずは問題の規模や本質をきちんと把握し、リスクを見極め、一気に処置することが不可欠。例えば、コロナへの対応では、まず検査を中途半端にせず広く徹底的に行い、隔離を徹底するとともに、治療法を確立していくこと。これを短期間で行う。緊急事態宣言を下したり解除したりを繰り返しても、根本的な解決にならず、影響が長期化する。日本ではこのような対処療法的政策がとられることが多く、に、バブル崩壊時の不良債権問題や、福島第一原子力発電所事故の廃炉の際など幾度となく失敗を繰り返している。

 

では今後日本がきちんとリスクに対応できる社会にするにはどうするべきか。この本のメッセージとして大事だと思うのが、リスクとは何かについて、もっと本質的にとらえる必要があるということだと思う。

例えば、エネルギー政策では太陽光や風力発電は「変動電源」であり、エネルギー不足のリスクが生じる可能性が高いものとされ、火力や原発の有用性が取りだたされる。しかし、火力や原発は一極集中型の電源であり、1つの発電所がダメになると、一気に広い範囲に大規模な影響が及ぶ。一方で、再エネは基本的に小規模分散型なので、どこかがダメになっても影響は狭い。変動型でも多様な気候の地域に分散して作れば補完しあえる。「変動」であることをリスクととらえることはやめ、集中型の構造を変えなければならない。

経済の観点からみて、これまでの開発や産業集積などの集中メインフレーム型の構造は、人口が増え、内需が拡大し続け、輸出が増えている状況下では経済活性化に大きく寄与してきた。しかし、人口が減少ししている現在には当てはまらなくなってきている。そういった意味でも分散型に切り替えるべき時期はコロナ前から来ていたといえる。

 

もう一つ重要な観点はガバナンス。情報の透明性を確保し、市民が自ら社会の在り方とエネルギー政策を決める。原発問題をはじめ、利権が多くはびこる中で、問題の根本的解決に舵を切るために欠かせない。

この本では「ご当地エネルギー」と呼んでいるが、地域コミュニティが作った発電プロジェクトや電力会社が中心となり再エネを作っていく運動が、日本のリスクへの備えにつながり、地域の自治力や経済活性化の一助となり得る。

 

ご当地エネルギーを始めて継続するのも結構大変なことだろうなと思うが、金子先生も飯田先生も、これまで多くの地域でご当地エネルギーづくりに取り組んでこられた実績をお持ちで、紹介されているプロセスはとても勉強になる。自治体や市民の理解を得てどこまで巻き込めるかというのはかなり難しいところだが、長い目で地道に取り組む方が効果がありそうだなと思う。ただ、時代の流れが激しいので、取り組み始めるのに待ったなしという印象。

併せて、個人ですぐに取り組めることも提案されていて、たとえば市民と自治体が旧一電の筆頭株主になることで、大きな組織で再エネへの転換を実現しようという筆頭株主運動に参加することが提案されていた。今までデカい組織VS地域・市民ととらえがちだったが、でかい組織を味方に付けようとは…大胆な発想で面白そう。こういう発想の転換を私も常に心掛けたい。やっぱり明るい未来を感じながら本を閉じたい。

 

『嫌われる勇気』幸せになるには踏み出すほかない

 またまた今更ながらではあるが、会社の先輩に「いまこの本自分の中でめっちゃキテルんよ!」っていわれて(キテルってなにw)渋々『嫌われる勇気』を読むことに。

 

 ビジネスマンでこの本のタイトルを聞いたことがないという人はいないんじゃないかと思うくらいあまりに売れすぎた本。

 それにしても全内容が想像できてしまうくらい秀逸なタイトルだ。好かれようとしたり周りを気にしすぎて生きにくさを感じている人は多いだろうし、私もその一人だ。でもそこから脱却するのは勇気がいるということ。そんなことはわかっているし、優秀な人がそのようにしていることも知っている。今更これを読んで得るものがあるのだろうか…と思いつつ読み始めた。

 

◆アルフレッド・アドラーの思想(アドラー心理学)を対話形式で気軽に学べる

 ユングフロイトと並ぶ心理学の三大巨頭の一人であるアドラーは、どうすれば人は幸せになれるかという問いに対しシンプル答えを出している。この本では、世界は矛盾に満ちていて幸福になどなれないと考える青年と、アドラー心理学で人は必ず幸せになれると信じる哲人の対話を通してアドラー心理学が紹介されていく。

 個人的には青年がいちいち過激に反論するのが若干癪に障るし、無駄なやりとりなければもっとコンパクトになるだろうと思うが、あらゆる反論に明快に答えを出せるアドラー心理学の一貫性がよくわかる構成にはなっている。また、青年の発言のおかげで不幸な人の思考が理解しやすく、たまたまアドラーの言っていることを実践していて既に幸福な人にも、アドラー心理学の意義が伝わりやすいかと思う。

 

◆論点1:幸せとは何か ―矛盾を生まないアドラー心理学の土台となる考え方

 この本は大体3つの論点に分けられると思う。その一つ目が幸せの定義。

 アドラーのいう幸福は自由になることであり、そのためには他者から嫌われる勇気を持たねばならなぬということだ。

 本では不幸せな状態として、家族関係や過去のトラウマから引きこもりになったり、劣等感を感じたりということが挙げられていた。アドラーは、それらを含む世のすべての悩みは対人関係にあるとした。

 本当にそうなのだろうか。もっと極端な例を考えてみたが、例えば、病気で悩んでいたとしても、その悩みの本質は「病気で仕事ができなくてダメな人間だ」とか「病気で遊びに行けなくて寂しい」とかそういったことであり、常に社会とのかかわりを含む対人関係の問題ととらえられるということだと理解した(少し無理やりな気もするが)。

 そして、その対人関係の問題の根源は、他人と比較して自分は人並みにできていて期待通り他人からの承認を得ている状況にないと、共同体への所属感・他者への貢献感を持つことができず、幸せになれないということ、つまり他人の考え方に縛られた生き方をしていることにあるというのがアドラーの主張だ。ここから脱却するためには、できない自分を認める「自己受容」が必要という。

 人はみな異なる境遇・バックグラウンドを持っているし、人それぞれできないことはあるだろう。それらを「過去のトラウマ」や劣等感の源泉ととらえ、自分ができないことや人の役に立てないことを境遇のせいにすることは、「他者よりも条件の悪いこの境遇でなければ、私はめちゃめちゃできる人なのだ」と言っているのと同じであり、これでは不幸な状況を変えられない。フロイトのように結果を原因論で考えるのはなく、今のできない自分を所与として、どうとらえ、どう使うかという目的論に立つことがアドラー心理学の特徴であり、哲人が「人は必ず幸せになれる」と言っている大きな理由である。

 自己受容し、他者からの承認を得ずとも他者貢献の実感を持てることが幸せの条件なということだ。

 この理論の良くできているなと思うところは、単に「他者と比較しないことで幸せになれる」と言ってしまうと「幸せになりたいと思っている時点で、他者と比較した考え方ではないか」という反論が出そうなところ、幸福=他者から自由になることという定義で完璧に答えられるところだと思う。青年の「くっ!!」という反応がよみがえる。

 

◆論点2:幸せになるためには ―ビジネスにも役立つ対人関係の作り方

 他人に縛られることなく共同体への所属感を得、不幸から抜け出し幸せになるためには、対人関係の悩みを克服する必要があるが、それは決して自己中心的になることや、関係を断つことではない。むしろ、信頼をベースにした対人関係を築くことが重要で、その関係づくりのカードを握るのは他者ではなく自分であるというのがアドラー心理学の考え方だ。

 不幸な人が他者との関係の中で自分の位置づけを捉える際に陥りがちな考え方が2つある。

 1つは上下関係でとらえることである。対人関係を潜在意識の中で上下関係でとらえていると、常に他人からの評価にさらされる。例えば、自分のルックスを気にして不幸になっている人がこれに当てはまる。もう1つは自分が世界の中心にいるという考え方である。他人の評価を常に気にしている人は自分のことにしか関心がなく、自己中心的な考え方をしているといえる。

 この2つの考え方を持っていると、期待通りの評価を得られなかったときに、劣等感から共同体への所属感を失うだけでなく、他人を敵だとみなすようになる。そして、他者を敵視するようになると、他者は自分を裏切る可能性もあると考え、他者からの見返りを前提とした関係性しか築けず、その見返りが期待通りでなかったときにさらに不幸になる。

 だからこそ、他者とは信頼に基づいた横の関係性を築くことが必要であるというのがアドラー心理学の考え方である。他者に見返りを求めない、承認を求めない。また、自分も他人にお返しはしないし、評価しない。こういった関係にあれば、行動ベースでなく、存在ベースで共同体への貢献感を得ることができる。つまり、誰かに何かをして役に立つ必要はなく、存在しているということをもって他者に貢献し得るという考え方に立てる。つまり、病気で何もできなくても貢献感は得られる。できていない自分に対して劣等感を感じず、承認を得なくとも幸せになれるのである。

 そして、アドラーによると、横の関係づくりは決して他人に左右されるものではなく自分で変えられるという。他者にしか変えられないことと自分が変えられることを切り分け、前者は所与としてとらえ干渉しない。逆に自分が変えられることは積極的に変えていく。例えば、裏切る人とは関係を切ればよいし、その勇気を持つことが幸せにつながる。これにより、対人関係の悩みはうまく整理できる。

 この横の関係づくりというのはビジネスでも役に立つ。上司からの指示を断れず、その通りにやって失敗するということを防げる。他者とより深い信頼関係の下で仕事ができる。何よりも、他者や境遇のせいにせず、自分を変えようという前向きな姿勢は成長に不可欠だろう。

 

◆所感:本当に必ず幸せになれるんか?

   以上の論点に対するアドラー心理学の答えにはおおむね同意する。ただ、個人的には「アドラー心理学に従えば、必ず人は幸せになれる」という言い方は若干齟齬があるように感じる。

 例えば、病気の人が他人の生き方と自分の人生を比較せず、今生きていることに幸せを感じようとしたとしても、やはり他人はすごく生きやすいのに何で自分だけと思うのは仕方のないことで難しいし、考え方を変えられたとしても痛みや苦しみと向き合い続ける日々を所与ととらえて幸せへの行動を起こせというのは無理があると思う。

 アドラー心理学は幸せのための十分条件ではなく、「少しでも今の状況から脱却し、幸せに近づくには、勇気をもって変化を求めていかざるを得ない、それ以外の道はない」という必要条件的なものかと思うので、「必ず幸せになれる」という表現は改めるべきと思った。

 あと、ビジネス本を読み漁るような優秀な人たちの多くはアドラー心理学の言っていることを自然と心得てしているだろうし、この本を読んで「そうだね」としか思わないんじゃないかと思うが、いったいどこに感動しているのだろうか。心得ていることが明文化されてわかりやすくなる側面はあるだろうが、正直タイトルだけで十分では?と思う。

『シン・二ホン』

虚無×やる気に満ち溢れる×何もやることがない=はてなブログ

という感じで4か月に1回ぐらいはてなブログを覗きに来ては積読本を読む気力を取り戻している。

 

もう3か月くらい前になるが、今更『シン・二ホン』を読んでよかったから書き留めておきたい。

でももう全部忘れたから要点だけ読み直す羽目に。

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政治家は専門家を疲れさせるな

怖い夢を見ると必ず夢診断にかける。

 

いつもは逃げる夢が多い。

自分の嫌な部分から逃げてる証拠だとか。

 

でも一昨日見た夢はいつもと違って、怖いゾンビと刃物で戦ってた。

 

切りつけても切りつけても、全然死なんかった。

 

何か葛藤していることがあると、戦う夢を見るらしい。

 

逃げてなくてよかった。でも確かに葛藤だらけの1ヶ月だった。

 

今週はやっと研究の方向性が固まって、少しは気持ちが軽くなった。

食欲も少し回復して、おやつにパン食べてた。

 

書きたい読書感想はたまっているのだが、今日はゼミで扱った『グリーン・ニューディール―世界を動かすガバニングアジェンダ』(明日香壽川著)の感想を。

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著者は環境エネルギー政策に精通している。

これまで政府のエネルギー政策決定プロセスや国際交渉の場にかかわってきた経験に基づきながら、グリーン・ニューディールを実現していくために必要な戦略と目標について科学的なデータに依拠して提案している。

 

話題となっているCO2排出削減目標についてはもちろん、数日前に発表された2030年に向けた電源構成の原案に直接かかわるエネルギー政策のあるべき姿についても言及している。タイムリーなのでとっても読みやすかった。

 

環境経済の本だと思って読んだ人は、少し期待外れに思うところもあるかもしれない。

なぜなら、国際協調における各国間のパワーバランスについてや、日本政府の政策決定における政治家や経済界の利権の影響力などについて、著者が見聞きしてきたエピソードが本全体に散りばめられ、強調されているからである。

 

やはり国の政策決定の最前線を見てきた人の経験談は生々しいものがあり、交渉の場では“本当に必要な政策を進めると困る人たちが大きな権限を持っている“というシステム自体を変えなければ、世の中を変えることができないという厳しい現実を読者に突き付けてくる。

 

そこには、何か著者の“疲れ”のようなものすら感じる。

 

どれだけ緻密なデータを集めて分析したとしても、どれだけ丁寧なシミュレーションをしても、どれだけ国にとってのメリットを客観的に証明しても、そこから導き出されるあるべき政策が選ばれるとは限らない、むしろ選ばれる方が少ないのが日本の政治なのだ。

 

一方でEUはそうした専門家による分析から、先行利益を得られる見込みを明確にしたうえで、変革へと舵を切ってきた。

特に最近では中国の環境政策が進んでおり、EUは少し焦りを感じている。

中国は排出量取引も開始したが、市場が大きいこと、独裁なので政策の実効性が高いことなどから、EUにとっては脅威となっているようだ。いかに先行利益を得るために改革を急ぐことができるのか、勝負に出ている段階なのだ。

 

そんなEUの動きに目もくれず、まーだ政治家と経済界の利権を守り続けようとしているのが日本なのである。

特に遅れているのは省エネだと教授は言っていた。

 

ゼミで「エネルギーミックスは必要か否か」という議題が出たのだが、いろいろ話し合ううちに、「原発も火力も嫌だけど、再エネだけではなんだか心もとない…」というような感じになってしまったのだ。

そこで、省エネが必要だという結論に至った。

 

いわれてみれば確かに、近年の日本では「いかにエネルギーを生産するか」という供給面についてばかり議論されており、「いかに消費量を減らすか」という需要面についてはほとんど議論されてこなかったように思う。

 

これはおかしな話である。なぜなら、日本はドイツなどに比べると太陽光発電などの再エネの割合が低いが、実は設置可能な面積に占める設置済み太陽光の割合はドイツの2倍であり、つまりは日本は今後太陽光を増やそうと思ってもドイツほどはすんなり増やすことができないからだ。

 

再エネを増やすことができない、原発も火力も嫌だ。

となれば、もう消費量をへらそうという方向に議論が向いてしかるべきだ。

 

なのに、なのに…いままで省エネの議論がされてこなかった…

 

この理由について、教授が指摘したのは、国民や政治家のエネルギーに対する価値観だった。

 

日本ではエネルギーについて「お金を払えば無限に使える」ものとして強く認識されている側面があるというのだ。

 

 このように電気=公共財として考えられてきた背景には、これまでエネルギー政策と気候変動政策が別々に考えられてきたことがある。

つまり、省庁の縦割りが特徴的な日本では、エネルギーはとにかく生産しなければならないもの、だから気候変動はエネルギー生産量を減らすことなく実現すべきだという考え方に固執してきてしまい、省エネの発想に至らなかったというのである。

 

ロビンズは「電気ノコギリでバターを切るな」といったそうだ。

電気は上質なものであるという考え方がそろそろ必要なのである。

 

そうした価値観の変革を促すために政治が果たす役割は大きいはずであるが、残念ながら、キャスティングボードになっている人や団体が気候変動よりも経済を優先したいという考えから離れられないうちは、正しい意見を発信している人たちや途上国の小さな意見は政策に反映されることはないのだということを今一度認識しなければならないらしい。

市民の生活基盤を支える資本なのであって

 内定者懇談会で休みの日に援農ボランティアに行っているという学生に出会った。

いいなあ、他の大学院生みたいにいろいろやりながら研究したいけど、研究が進んでいない私にはそんな余裕は相変わらずない。

 

 研究に関係ない本を読むことくらいは許されているような気がして読んでるけど、実際に誰かに許しを得たわけでもない。遊んでいる学生と本質的には変わらないよな~ah(髭だん風)。

 

 とりあえず私の自己紹介では家庭菜園で育てているトマトがまだ3センチしか伸びていないことをお知らせしてやった。

援農ボランティアに行っている彼女の家庭菜園のトマトはもう実がなっているらしい。

 

内定先では周りに見下されるくらいがちょうどいいんだと自分に言い聞かせた。

 

 

今回は先日のゼミで読んだ『宇沢弘文の経済学ー社会的共通資本の論理』について考えたことを書く。

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 社会的共通資本とは、人々の生活の基盤となる資本のこと。

わかりやすい例としては道路などのインフラや森林などの自然資本などが含まれる。

その他にも人的資本(労働力や知識など)や社会関係資本(人々のつながりなど)が含まれることがあり、どこまでを社会的共通資本に含むかの見解は学者によってさまざまだ。

 

 しかし、そういった議論においてどのような立場をとる学者であっても、共通した主張があるように思われる。それは、社会的共通資本は市民の生活の基盤であり、市民のために整備されたり使用ルールが決められたりしてしかるべきものだということである。

 

決して、政治家が票を集めるために建設したり、財政難を理由に市民の合意なく民営化をしたりするような対象ではないのだ。

(特に、社会的共通資本の性質上、運営においては採算の取れるものでない場合が多く、市民の生活を守るために赤字でも公的部門によって運営されるべきものとされている。

一方で現実には、政治家の新自由主義的な考えによって、経費が削減されたり民営化されたりすることがある。)

 

 そんな社会的共通資本について、制度学派の立場からその概念を整理したのが宇沢弘文先生である。社会的共通資本といえば宇沢先生だし、市民の生活の基盤を整備する話や地方財政の話でも宇沢先生の社会的共通資本の話が出てくるほど、大変重要な概念である。

 

 宇沢先生の考える社会的共通資本には制度が含まれるのが特徴的だ。

 

 いくら世界で活躍した経済学者が言っていることとはいえ、制度が資本だなんて違和感満載である。実際、批判の的になっている。

 

 しかし、制度が社会問題の解決のために改善が積み重ねられて今の形になった、という歴史を振り返れば、実は制度には資本の特徴であるストックの側面があるといえるのだ。なるほど。

 

 ここで言う制度が指すものには、具体的には教育や医療、市場などあらゆる制度が含まれる。

 

 これらが市民の生活を支えるためにきちんと機能するよう整備されているかどうかが重要であると宇沢先生は言っている。もっともだと思う。

 

 例えば、実体経済に合わない形で資産価値だけが上昇するような市場のシステムは、一部の資産家のために多くの市民を犠牲にする。

カーボンプライシングだって、高ければ高いほど気候変動対策にはなるが、低所得者を苦しめる結果になりかねない。

医療費については、本当に必要な人に必要な治療を必要な分だけ提供する医者が損をする診療報酬体系になっていないか。

 

 こうした問題はバラバラに受け取られがちであるが、社会的共通資本という概念を持ち込むことで、市民の生活という共通の視点から、その在り方を考え直すことができるというわけだ。

 

 以上の点については、重要な指摘であることはわかるが、個人的にはやはり制度は資本に含まれないと思う。

自然資本やproduced capital(訳を思い出せない)のストックのプラスマイナスは、量的に計られている。

質的な部分については、人間がどう採取したりどう作ったりどう活かすかというときに問題になるのであり、資本そのものの評価とは別の問題のように思える。

一方で、資本としての制度は、その質が評価対象になる。そこにはどう作ってどう活かすかという観点が既に組み込まれてしまう。

 

 そうであれば、むしろその制度を作っている人や組織、コミュニティなどを社会の基盤となる資本として認識する方がシンプルだし、資本の蓄積を通じた課題解決方法を示すことができるのではないだろうか。

 

 宇沢先生は基本的に専門家の役割を重視しているが、社会的共通資本の管理については、誰がどのように関わるべきかということを明言していない。この点に対しては批判が多いという。

 

 管理とまではいかないまでも、少なくとも市民が社会的共通資本のありかたをめぐって議論を重ねたり政策決定を行えるような社会になってほしい。行政の腕の見せ所だと思う。