休職中で暇だから替え歌 クリープハイプ 栞
桜散る 桜散る
はらはら待つ 医師が嫌い
「今ならもう復帰できるよ」が風に舞う
焦燥だよ ご無理ね
新しい薬出すから元気でね
桜散る 桜散る
お散歩の時間がきて
家にいたい 仕事したい ずっと痛いのにな
うつむいてるくらいがちょうどいい
地面に咲いてる
信じてきたものの揺れに向き合う勇気をもとう
答えを出さない本に、なぜ惹かれてしまうのか
『「核」論――鉄腕アトムと原発事故のあいだ』がかなり良かったので、感想を書く。
文章そのものが好きだし、読み進めるほどに味が出てくる。結論を急がず、何度も行き来しながら考えさせられるため、また読み返したくなる本だった。
なお、増補版は『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』というタイトルで刊行されている。
『おしゃれ』にも正解を求めてしまう私たち
年始早々、本を整理するついでに「本棚をおしゃれに見せる方法」を夫と検索していた。
おしゃれなど本来は個人の主観に過ぎないはずなのに、世の中には妙に納得感のある論理で説明してくれるコンテンツが存在する。たとえば「飾りは存在感のあるものを、余白をもって配置する」といった具合だ。私たちはまんまとそれを採用したものの、結果としては特段、以前と大きく変わったわけでもない。
なぜ私たちは、こうして何度も「正解」を探しては失敗するのだろうか。思い返せば、これは今に始まったことではない。とりわけ社会科学の領域には、そもそも正解など存在しなかった。
大学院生時代、ゼミで議論すればするほど迷宮入りしていくあの空間の居心地の悪さ。自分の発言に誰かがうなずいてくれたときの、あの奇妙な快感。そうした経験が、「納得すること」への過剰なこだわりを生み出してしまったのかもしれない。
社会人になってからの三年半を振り返ると、意外にも「納得できる正解」が見つからないまま前に進む場面が多かったように思う。「頑固系OL」というタイトルを自称している割にキャラクターが迷走しているが、大企業の新卒社員であれば、ある程度は仕方がない。
もっとも、自分自身にその自覚があったかといえば、必ずしもそうではない。正当化しないことへの恐れがあったし、納得しなければ手を付けない姿勢こそが、自分の思考の深さであり強みだと思っていた。割り切って物事を進める周囲の人たちは大人に見えた一方で、どこか面白みのない存在にも映っていた。
「社会は『信じてしまっているもの』の上に成り立つ」
しかし、この本を読んで考えが変わった。
彼らの中には確かに割り切っている人もいるだろうが、実際には「居心地の悪さ」と向き合い続けた末に、あの立ち位置にいる人もいるのではないか、と。
著者は原発問題に対して、明確にニュートラルな立場をとっている。ただしそれは、結論を先送りにした態度ではない。むしろ徹底して冷静なのだ。
感情をむき出しにする反対派に対しても、本来断定などできないはずの原発の安全性に、どこか諦観を帯びた線を引く推進派に対しても、著者は等しく「共感できない」と述べる。
結局のところ、私たちは皆、どこかで割り切っているのかもしれない。
所詮は他人事なのだ。
その意味で、憲法九条や防衛の問題は典型的だ。
私たちはどこかで、自分たちが攻撃されることはないと信じている。その不確かな「信頼」を支えているのは、戦後から今日までの日本の歩みの記憶であって、未来そのものではない。それでも私たちは、過去と同じ延長線上の未来が続くと信じて疑わない。お金も同様に、こうした「信頼」が社会の基盤を成している側面があることを、著者は指摘する。あまりにも図星で、少し自分が信じられなくなりそうになる。
著者は、こうした主張の根拠のあいまいさから生まれる認識や思考の差を「振幅」と呼ぶ。
振幅はとらえるものではなく向き合うもの
原爆を経験した国でありながら、JCO事故において高濃度の核燃料がバケツとひしゃくで扱われていたという事実は、にわかには信じがたい。だがそこには、確かに大きな振幅が存在している。
この振幅が生み出しているのは、単純な「感情的な反対派」と「功利主義的な推進派」という対立構図ではない。
私たちは日常生活の中で、この振幅の存在にほとんど気づかない。そのため反対派は、うまく説明し説得さえすれば脱原発は実現できると期待するし、実際に起きた事故は格好の説明材料となる。反対運動が盛り上がるほど補償金が地域に落ちる構造は、今も昔も変わらない。
このように原発をめぐる利害関係者は文字通り複雑に絡み合っており、本来であれば振幅を自覚し、建設的な議論を行うために用いられるべき客観的視座は、その構造を理解し、利用するために注がれている。彼らは達観した口調で「合理的」な説明をするのだろう。
それを目にした私は、「彼らは割り切ってそう説明しているのだ」と感じてしまうかもしれない。しかし、もし彼ら自身が高度なメタ認知のもと、自分なりに納得できる論理で語っているのだとしたらどうだろう。彼らの言動が、極めて個人的でありながら合理的だとしたら。
そう考えると、私が正解にたどり着けないのも無理はない。私自身もまた、客観的に見ているつもりになっているだけなのだから。
大学院時代にお世話になった先生の「『わかった』と思うほど危険なことはない」という言葉を、私は社会人になってからも大切にしてきたつもりだ。
正解を明快に導き出せない居心地の悪さと、これからも向き合い続けなければならない。複雑さを引き受け、それでも考えることをやめないこと。いつか互いに、その複雑さを受け入れられる日が来るまで。
「温かいテクノロジー」が照らす未来をのぞいてみた
久しぶりにブログ編集ページを開くと「AIタイトルアシスト」たるタブがお出まし。
いつからこんなんあった?なんでも本文作ると内容に合わせてタイトルを作ってくれるのだとか…採用するかどうかは最後のお楽しみ。(結果:広告みたいな言い回しだったので不採用に)
最近Excelで関数を組みたいときはもっぱらChatGPTに頼っているが、さすがに何も知らずにAIをこき使うのはいかがなものかと思い、文系にもわかりそうな本を買ってみた。これが大当たりだったのでシェアしたい。
■AI搭載型「温かい」ロボットの開発者のエッセイ
子どもやペットがいないご家庭の新たな家族として注目を浴びている「LOVOT(ラボット)」をご存じだろうか。一般的にイメージするロボットと異なり、触ると温かく、愛くるしい動きとコミュニケーションで周囲との温かな関係を構築ことができるAIロボットである。著者がなぜLOVOTを開発するにいたったのか、周囲のAIに対する期待や不安にどう答えていくか、エンジニアの熱意と苦悩が垣間見えるエッセイとなっている。AIの特徴が分かりやすいだけでなく、自分自身の生き方やAIとの共存についてとても考えさせられた。
AIを作るというと、計算が早くできるようになったり、大量のデータから何かを取り出したり、人間にはできないことをできるようにプログラムを組むものというイメージを持っている人が多いと思う。そこには生命としての人間とは重なるところがほとんどなく、「温かさ」が入る余地はなさそうに思える。AIというと生産性向上のために開発されるのが多い中で、家族としてロボットを迎え入れるなど一部のもの好きがすることと思っていた。「それってなんの役に立つんですか」とコメントする投資家がいるのもわかる気がする。雇用を奪われるのではないかといったAIに対する漠然とした不安も私の中にあった。
しかし、著者は「温かい」テクノロジーを実現させることにこだわっている。生産性だけが人類を幸せにするのではない。人類が将来への不安を取り除き、誰もが自分らしく、存在意義を見失わずに幸せに生きるためには、失敗を恐れず挑戦することでやればできるんだと実感できることが重要。そのサポート役ができるAI、すなわちこれまでのAIのように冷静さや完璧さを追求したものではなく、自然体でどこか弱さもあり、人間のやさしさや気づきを引き出す「温かさ」を持ったAIの開発を著者は目指している。
■AIを開発することは人間のメカニズムを探ることと表裏一体
著者はLOVOTを温かいロボットにするために、「愛とは何か?」「感情とは何か?」「生命とは何か?」「社会とは何か?」「多様性とは何か?」「幸せとは何か?」と、一見哲学的にも思える壮大なテーマを分析を行っている。著者の分析を見れば、確かに温かいテクノロジーは人間の将来への不安をぬぐい、幸せな社会にしてくれそうと感じさせられる。
心理学をはじめとする専門家の意見も踏まえた著者の考察は、サブタイトル通り私たちを知的冒険にいざなってくれる。どれもおもしろかったが、例えば「命とは思い入れである」「感情とは相手の反応を見た自分の主観」というように、人間の思考や感情、判断について、どうしてそのように進化したのかを分析されていてかなりアハ体験だった。このプロセスにおいてはメカニズム的にとらえるのが憚られる部分があるので「冷たさ」を感じることもあるが、対話で違和感のないロボットを作るには人間のメカニズムが重要なんだとわかる。それと、ドラえもんは人間界にいても自然体で、のび太に何かを押し付けるわけでもなく気付きを与えてくれるところがAIとしてとても優秀であることもよくわかった。
■メカニズムがわかると不安は期待になる
「AIに職を奪われるのでは?」「こんな機能のためになぜここまでコストをかけるのか?」― 現在多くの投資家や消費者が持つAIへの期待や不安は、「温かい」テクノロジーを実現を妨げかねない。著者が言う通り、失敗を恐れず信じて前に進む社会がいいなと思うし(自分もそうありたいと思った)、一歩踏み出す自信を持つためには、物事の本質やメカニズムを丁寧に分析していくことが大事だと痛感した。この本はその分析するプロセスの面白さも伝えてくれている。そんな骨の折れる分析を通して著者はAIと人類が共存する方向性を提示している。ぜひ多くの人に読んでもらいたい。
みんなの素朴な疑問に丁寧に答えていく著者の謙虚な姿勢や、良い社会にしたいという熱意とやさしさがにじみ出た「温かい」エッセイだった。困ったことにLOVOTが欲しくなってしまった…(1体50万円)
『問いのデザイン―創造的対話のファシリテーション』
最近ファシリテーションをする機会があったので迷ったがこの本を読んでみた。
特に「問いの立て方」を深堀しつつプログラムの立て方全体が網羅的にカバーされていて、これまで読んだファシリテーション関連の本の中でも満足度が高かったし、今すぐ実践したくなったので紹介。
ファシリテーションだけでなく、会議や自分の思考をめぐらすときにも役に立つ内容。
◆問いかけ方で固定化された認識と関係性をほぐし、創造的な会議・ワークショップに
Appleが「スマホに説明書は要らない」という新たなアイデアでスマホを幅広い層に普及させたように、ビジネスで勝っていくには自分たちの考えや当たり前となっている価値観の前提を疑い、他にはない課題解決を模索しなければならない。
しかし、同じ会社で働いていても人によって課題の見え方は異なってくるので、解決すべきことも異なっていることが往々にある。また、疑うべき前提に気づいていても、「あの人に言ってもしょうがないしな…」といったチーム員の関係性上の問題で、根本的な解決に向かないこともある。
そこで、お互いの前提や価値観を共有し、そこから共通の意味を見出していく対話の場を通じて、新たな価値観や関係性を作っていくことが重要である。
◆問いの立て方を意識することで参加者の感情や思考を揺さぶる
固定化された認識と関係性を解きほぐし、創造的なコミュニケーションの場を作るには「問いのデザイン」、つまりどのような問いをどのような順番・タイミングで投げかけるかがカギだと筆者はいう。
なぜ問いにフォーカスするのか。例えば、「居心地の良いカフェとは?」という問いかけよりも、「危険だけど居心地のいいカフェとは?」という問いの方が、いつもと違う思考回路でワクワクしながら取り組むことができる。
このように、問いは人々の感情や思考を左右するものであり、逆に言えば問いをデザインすることで参加者の価値観の前提に揺さぶりをかけ、新たな発想やワークへのやる気を引き出すことが可能ということだ。
関係性をフラットにする工夫もできる。こちらが答えを用意したうえで質問するのではなく、対話の中で出てきた素朴な疑問をファシリテーターから「あれ?これって…」とぶつける方が、予期せぬ答えからファシリテーター側も学ぶことが出てくるなど、学びあえる関係性を築くことができる。
◆これまでのHow to本では気づかなかった問いの重要性
こういったファシリテーション上の問いの立て方については盲点だったと思う。ファシリテーションの経験がある人の中には、認識や関係の固定化については理解していたものの問いに落とし込んでおらず、ただ参加者に「前提を疑っていきましょう」「フラットに、リラックスして意見交換しましょう」と‘’意識づけ‘’するだけで問いで促すことはしていない人も結構いるのではないかなと思う。ファシリテーションはその名の通り、司会進行とは違って促すことが大事なのだから当たり前でもあるのだが、問いに注目することで促し方がかなりクリアになる。
例えば、グループワークであまり発言していない人がいたら「●●さんご意見ありますか?」という聞き方が一般的だと思うが、これだとただの司会進行である。なんでこの人は発言できていないのか、どんな質問だったら答えやすくなるか、積極的に参加してもらえるか、と相手の立場で考えて具体的な質問をしなければならない。ワークの内容に納得していないかもしれないし、ただ問いが難しいだけかもしれない。そこを柔軟に問いでフォローできるかどうかがファシリテーターの腕の見せ所といえる。
◆この本を活かすには練習が必要
この本は課題設定のところからWSのワーク内容の設計、本番の対応まで問いの立て方にフォーカスしつつ解説されている。どれもかなり実用的なフレームワークになっていてすぐに実践できそうである。ただし、かなりポイントが多いので様々な機会で何度も実践を通して練習しなければ習得できないと思う。まずは自身の目標立てだったり、チームとの会話の中で実践しつつ、ワークショップの開催時にもこの本通りに進めるようにしたいと思う。
『メガリスク時代の「日本再生」戦略』
物価上昇が著しい。
12月くらいまでリーズナブルだったみんな電力からの請求も、ヒーターを使いだしてから少しずつ上がり、4月からは1.5倍くらいの単価になるとのこと。
一方で九州では太陽光の出力抑制(電気が余っているので発電をしないように指令が出される)がまだ3月なのに始まってしまった。電気が足りないんだか余っているんだか。
この本は分散型エネルギーを活用した日本再建がテーマ。新型コロナの問題も扱われているとのことで、エネルギー政策とどこに関係にあるのか…と不思議に思っていた。
出版されてから日は経っているが、エネルギー危機にある今こそ読んでおきたいテーマ。
次々に暴かれる日本社会の闇に失望感がのしかかるが、各地域の実践例たちがこっちへおいでと優しく未来を照らし手を引いてくれるような、そんな金子先生ワールド全開なところがお気に入りの1冊。
テーマとなっているのは、リスクに備えられる日本に変える提案。日本がトラブルに巻き込まれた際にこれまで取ってきた対応は根本的解決に至っておらず、その原因としてリスクへの備えられる分散型社会の構築が遅れていることが指摘されている。
リスク対応については、まずは問題の規模や本質をきちんと把握し、リスクを見極め、一気に処置することが不可欠。例えば、コロナへの対応では、まず検査を中途半端にせず広く徹底的に行い、隔離を徹底するとともに、治療法を確立していくこと。これを短期間で行う。緊急事態宣言を下したり解除したりを繰り返しても、根本的な解決にならず、影響が長期化する。日本ではこのような対処療法的政策がとられることが多く、に、バブル崩壊時の不良債権問題や、福島第一原子力発電所事故の廃炉の際など幾度となく失敗を繰り返している。
では今後日本がきちんとリスクに対応できる社会にするにはどうするべきか。この本のメッセージとして大事だと思うのが、リスクとは何かについて、もっと本質的にとらえる必要があるということだと思う。
例えば、エネルギー政策では太陽光や風力発電は「変動電源」であり、エネルギー不足のリスクが生じる可能性が高いものとされ、火力や原発の有用性が取りだたされる。しかし、火力や原発は一極集中型の電源であり、1つの発電所がダメになると、一気に広い範囲に大規模な影響が及ぶ。一方で、再エネは基本的に小規模分散型なので、どこかがダメになっても影響は狭い。変動型でも多様な気候の地域に分散して作れば補完しあえる。「変動」であることをリスクととらえることはやめ、集中型の構造を変えなければならない。
経済の観点からみて、これまでの開発や産業集積などの集中メインフレーム型の構造は、人口が増え、内需が拡大し続け、輸出が増えている状況下では経済活性化に大きく寄与してきた。しかし、人口が減少ししている現在には当てはまらなくなってきている。そういった意味でも分散型に切り替えるべき時期はコロナ前から来ていたといえる。
もう一つ重要な観点はガバナンス。情報の透明性を確保し、市民が自ら社会の在り方とエネルギー政策を決める。原発問題をはじめ、利権が多くはびこる中で、問題の根本的解決に舵を切るために欠かせない。
この本では「ご当地エネルギー」と呼んでいるが、地域コミュニティが作った発電プロジェクトや電力会社が中心となり再エネを作っていく運動が、日本のリスクへの備えにつながり、地域の自治力や経済活性化の一助となり得る。
ご当地エネルギーを始めて継続するのも結構大変なことだろうなと思うが、金子先生も飯田先生も、これまで多くの地域でご当地エネルギーづくりに取り組んでこられた実績をお持ちで、紹介されているプロセスはとても勉強になる。自治体や市民の理解を得てどこまで巻き込めるかというのはかなり難しいところだが、長い目で地道に取り組む方が効果がありそうだなと思う。ただ、時代の流れが激しいので、取り組み始めるのに待ったなしという印象。
併せて、個人ですぐに取り組めることも提案されていて、たとえば市民と自治体が旧一電の筆頭株主になることで、大きな組織で再エネへの転換を実現しようという筆頭株主運動に参加することが提案されていた。今までデカい組織VS地域・市民ととらえがちだったが、でかい組織を味方に付けようとは…大胆な発想で面白そう。こういう発想の転換を私も常に心掛けたい。やっぱり明るい未来を感じながら本を閉じたい。
『嫌われる勇気』幸せになるには踏み出すほかない
またまた今更ながらではあるが、会社の先輩に「いまこの本自分の中でめっちゃキテルんよ!」っていわれて(キテルってなにw)渋々『嫌われる勇気』を読むことに。
ビジネスマンでこの本のタイトルを聞いたことがないという人はいないんじゃないかと思うくらいあまりに売れすぎた本。
それにしても全内容が想像できてしまうくらい秀逸なタイトルだ。好かれようとしたり周りを気にしすぎて生きにくさを感じている人は多いだろうし、私もその一人だ。でもそこから脱却するのは勇気がいるということ。そんなことはわかっているし、優秀な人がそのようにしていることも知っている。今更これを読んで得るものがあるのだろうか…と思いつつ読み始めた。
◆アルフレッド・アドラーの思想(アドラー心理学)を対話形式で気軽に学べる
ユング、フロイトと並ぶ心理学の三大巨頭の一人であるアドラーは、どうすれば人は幸せになれるかという問いに対しシンプル答えを出している。この本では、世界は矛盾に満ちていて幸福になどなれないと考える青年と、アドラー心理学で人は必ず幸せになれると信じる哲人の対話を通してアドラー心理学が紹介されていく。
個人的には青年がいちいち過激に反論するのが若干癪に障るし、無駄なやりとりなければもっとコンパクトになるだろうと思うが、あらゆる反論に明快に答えを出せるアドラー心理学の一貫性がよくわかる構成にはなっている。また、青年の発言のおかげで不幸な人の思考が理解しやすく、たまたまアドラーの言っていることを実践していて既に幸福な人にも、アドラー心理学の意義が伝わりやすいかと思う。
◆論点1:幸せとは何か ―矛盾を生まないアドラー心理学の土台となる考え方
この本は大体3つの論点に分けられると思う。その一つ目が幸せの定義。
アドラーのいう幸福は自由になることであり、そのためには他者から嫌われる勇気を持たねばならなぬということだ。
本では不幸せな状態として、家族関係や過去のトラウマから引きこもりになったり、劣等感を感じたりということが挙げられていた。アドラーは、それらを含む世のすべての悩みは対人関係にあるとした。
本当にそうなのだろうか。もっと極端な例を考えてみたが、例えば、病気で悩んでいたとしても、その悩みの本質は「病気で仕事ができなくてダメな人間だ」とか「病気で遊びに行けなくて寂しい」とかそういったことであり、常に社会とのかかわりを含む対人関係の問題ととらえられるということだと理解した(少し無理やりな気もするが)。
そして、その対人関係の問題の根源は、他人と比較して自分は人並みにできていて期待通り他人からの承認を得ている状況にないと、共同体への所属感・他者への貢献感を持つことができず、幸せになれないということ、つまり他人の考え方に縛られた生き方をしていることにあるというのがアドラーの主張だ。ここから脱却するためには、できない自分を認める「自己受容」が必要という。
人はみな異なる境遇・バックグラウンドを持っているし、人それぞれできないことはあるだろう。それらを「過去のトラウマ」や劣等感の源泉ととらえ、自分ができないことや人の役に立てないことを境遇のせいにすることは、「他者よりも条件の悪いこの境遇でなければ、私はめちゃめちゃできる人なのだ」と言っているのと同じであり、これでは不幸な状況を変えられない。フロイトのように結果を原因論で考えるのはなく、今のできない自分を所与として、どうとらえ、どう使うかという目的論に立つことがアドラー心理学の特徴であり、哲人が「人は必ず幸せになれる」と言っている大きな理由である。
自己受容し、他者からの承認を得ずとも他者貢献の実感を持てることが幸せの条件なということだ。
この理論の良くできているなと思うところは、単に「他者と比較しないことで幸せになれる」と言ってしまうと「幸せになりたいと思っている時点で、他者と比較した考え方ではないか」という反論が出そうなところ、幸福=他者から自由になることという定義で完璧に答えられるところだと思う。青年の「くっ!!」という反応がよみがえる。
◆論点2:幸せになるためには ―ビジネスにも役立つ対人関係の作り方
他人に縛られることなく共同体への所属感を得、不幸から抜け出し幸せになるためには、対人関係の悩みを克服する必要があるが、それは決して自己中心的になることや、関係を断つことではない。むしろ、信頼をベースにした対人関係を築くことが重要で、その関係づくりのカードを握るのは他者ではなく自分であるというのがアドラー心理学の考え方だ。
不幸な人が他者との関係の中で自分の位置づけを捉える際に陥りがちな考え方が2つある。
1つは上下関係でとらえることである。対人関係を潜在意識の中で上下関係でとらえていると、常に他人からの評価にさらされる。例えば、自分のルックスを気にして不幸になっている人がこれに当てはまる。もう1つは自分が世界の中心にいるという考え方である。他人の評価を常に気にしている人は自分のことにしか関心がなく、自己中心的な考え方をしているといえる。
この2つの考え方を持っていると、期待通りの評価を得られなかったときに、劣等感から共同体への所属感を失うだけでなく、他人を敵だとみなすようになる。そして、他者を敵視するようになると、他者は自分を裏切る可能性もあると考え、他者からの見返りを前提とした関係性しか築けず、その見返りが期待通りでなかったときにさらに不幸になる。
だからこそ、他者とは信頼に基づいた横の関係性を築くことが必要であるというのがアドラー心理学の考え方である。他者に見返りを求めない、承認を求めない。また、自分も他人にお返しはしないし、評価しない。こういった関係にあれば、行動ベースでなく、存在ベースで共同体への貢献感を得ることができる。つまり、誰かに何かをして役に立つ必要はなく、存在しているということをもって他者に貢献し得るという考え方に立てる。つまり、病気で何もできなくても貢献感は得られる。できていない自分に対して劣等感を感じず、承認を得なくとも幸せになれるのである。
そして、アドラーによると、横の関係づくりは決して他人に左右されるものではなく自分で変えられるという。他者にしか変えられないことと自分が変えられることを切り分け、前者は所与としてとらえ干渉しない。逆に自分が変えられることは積極的に変えていく。例えば、裏切る人とは関係を切ればよいし、その勇気を持つことが幸せにつながる。これにより、対人関係の悩みはうまく整理できる。
この横の関係づくりというのはビジネスでも役に立つ。上司からの指示を断れず、その通りにやって失敗するということを防げる。他者とより深い信頼関係の下で仕事ができる。何よりも、他者や境遇のせいにせず、自分を変えようという前向きな姿勢は成長に不可欠だろう。
◆所感:本当に必ず幸せになれるんか?
以上の論点に対するアドラー心理学の答えにはおおむね同意する。ただ、個人的には「アドラー心理学に従えば、必ず人は幸せになれる」という言い方は若干齟齬があるように感じる。
例えば、病気の人が他人の生き方と自分の人生を比較せず、今生きていることに幸せを感じようとしたとしても、やはり他人はすごく生きやすいのに何で自分だけと思うのは仕方のないことで難しいし、考え方を変えられたとしても痛みや苦しみと向き合い続ける日々を所与ととらえて幸せへの行動を起こせというのは無理があると思う。
アドラー心理学は幸せのための十分条件ではなく、「少しでも今の状況から脱却し、幸せに近づくには、勇気をもって変化を求めていかざるを得ない、それ以外の道はない」という必要条件的なものかと思うので、「必ず幸せになれる」という表現は改めるべきと思った。
あと、ビジネス本を読み漁るような優秀な人たちの多くはアドラー心理学の言っていることを自然と心得てしているだろうし、この本を読んで「そうだね」としか思わないんじゃないかと思うが、いったいどこに感動しているのだろうか。心得ていることが明文化されてわかりやすくなる側面はあるだろうが、正直タイトルだけで十分では?と思う。




