頑固系OLのおっとりな本棚

頑固な思考から解放してくれるような本との出会いをマイペースに紹介

なんでこんな短い題名なんや「環境」

春休みに入ったので環境経済学の復習を。

長期休みに入る→復習する→長期休みが終わる→授業に追われる

を幾度となく繰り返していたせいで、修論のテーマすら決まってない系ノロノロ大学院生ですけど何か?

 

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今回読んだのはこちら。諸富先生の『環境』

 

環境 (思考のフロンティア 第II期)

環境 (思考のフロンティア 第II期)

 

題名からは内容が全く想像できないが、持続可能性という超壮大なテーマについて丁寧ながら簡潔に解説されており、大変すばらしく、ありがたい本だった。

文章がとんでもなく読みやすかった。

ただ、あまりに基礎的な内容すぎて、春休みにこれを読んでいたとは教授には口が裂けても言えない。

 

 

前半は持続可能な発展の定義について、資本主義経済と環境の関係性に注目しながら、既存の研究をまとめている。

後半は社会関係資本の概念から、持続可能な発展に必要な公共政策を提案している。

 

持続可能な発展も、社会関係資本も、そうそうたる学者さんたちの間で定義について議論が交わされていたようだ。こうやってより良い社会をつくるための規範が形成されてきたんだから本当に偉大だなぁ。逆にこういう議論を知らないで企業の人たちがSDGsだの持続可能だの言っているのをみると恥ずかしくなってくるよね。

 

おもしろいなと思ったのは、社会関係資本について、地域における様々な組織のありかたが昔と現代では違うんだというところ。

 

昔は農山村みたいに、ある地域で地縁などに基づいて組織がつくられていて、伝統的な規律に従うよう人々に見えない“圧力“をかけることでうまくやっていた。

でも今は、みんな個人個人で自由で多様な価値観を持っていて、そうした人々が自発的につながりをつくって運動をしたりする。

 

だから、昔は人々は相互に助け合って生きていて、社会関係資本の厚さがあったが、今は人々の関係性が希薄で、社会関係資本が薄くなってきている、というイメージばかりがあるが、

 

薄くなっているんじゃなくて、その内容が変わってきている、というご指摘だった。

(もちろん、昔の人々は半強制的につながりの中にいたのに対し、今はどこのつながりにも参加できていない人がいる、という点で、社会関係資本は薄くなっているのかもしれないが)

 

だから、昔と違って、今のつながりは組織のような外形のあるものとは限らない。

つまり、有形から無形へと変化している。

 

経済についても同じことがいえる。

グローバル化や技術の発展により、物質的なものから、形のない非物質的なものへ。

 

だから、政府も社会関係資本を厚くするための制度や規制を整える必要がある。

つまり、形のある公共事業から無形の“ルールづくり”や”環境整備”へ。

 

ますます公務員の人たちの力量が問われてくるように思う。

公務員の人たちがたとえ専門的な知識を持つことができないとしても、

専門家の意見を的確にとらえる能力が問われてくるし、

まちの社会関係資本の姿、つまり現場のことも的確に把握しなければならない。

 

この本が書かれたのは2003年なので、当時と比べるとネットやSNSが発達して、まちの状況や人々の意見について把握する手段は増えたのはいいことだ。

けれども、そのおかげで人々の方もますます複雑になってきている。

 

時代は確実に変わっているのだ。それも私が気づかぬうちにすごいスピードで。

コロナもさっさと消えてほしいんだけど。

有事における政策決定はどのように行われるべきか

中国人留学生が教えてくれたのだが、 中国語で「民主主義」は大統領令のことを指すそうだ。(なんでw)

 

あれ?中国に大統領…?

 

そう、どうやら中国の国家主席を英語にするとPresidentになるらしい。

 

しかし、国家主席と大統領ではその選出のプロセスが全く異なるため、昨年の8月に米議会から“中国の国家主席のことをPresidentと呼ぶのを禁止する法案”が提出されたそうだ。

気持ちはわかる。

 

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さて、今回のゼミで読んだ本は宇野重規氏の「民主主義とは何か」。

 

民主主義とは何か (講談社現代新書)

民主主義とは何か (講談社現代新書)

 

 

新書なので1000円くらいで買えて、民主主義の歴史と議論がわかりやすく、ぎっしりと書かれており、かつ賛否バランスよく学ぶことができる。
コスパ最強、素晴らしすぎる。

高校生の時に読みたかった。

 

以前、「持続可能な未来のための民主主義」を読んで議論をしたときに、専門家が政治を牽引すべきという意見を出したゼミ生がいた。

 

そのゼミ生は、今回の本を読んで、市民の参加の重要性は理解できたものの、やはり非常事態の際にはトップダウンでの迅速な政策決定が必要ではないかと考えたそうだ。

 

この反論として、大まかに分けると2つの意見が出た。

  1. 民主主義のプロセスを踏まずに政策決定を行うと、1度ミスをしたときに軌道修正が効かない。
  2. 非常事態への対処において、トップダウン型だから成功しやすいとは言い切れない。また、民主主義プロセスを採用し、成功をする場合もある。

 

1については、独断による政策の失敗は、国が滅亡するまでその方針が変わらない、なんてことが起こることが多く、注意が必要だ。
日本の第二次世界大戦への参戦がわかりやすい例だ。

 

2については、実際歴史を振り返ると、独裁政権下で決められた政策などはことごとく失敗していることから想像に難くない。
また、コロナ禍においても、中国やベトナムトップダウン方式が一部メディアで賞賛されているが、両国の感染対策の成功がトップダウン方式に由来するとは言い切れない。

反対に、韓国や台湾は、民主主義的プロセスを重視しつつ、感染拡大を食い止めることができている。

 

本の中でも、緊急時における民主主義の軽視は長期的に見ればよい結果をもたらさないと言及されている。

緊急事態をきっかけに民主主義に対する否定的なイメージが広がってしまうかもしれない。

 

政府と市民の信頼関係は民主主義の実現にとって欠かせない。

 

人々は、自分の意見を聴いてもらえる、参加することに意義を見出せる、政府は市民のために尽くしてくれる、と感じられるからこそ、多少の負担に耐えてでも参加してくれるようになるのだ。

 

緊急事態でその信頼関係が壊れるようなことがあってはならない。

 

 

この政治への信頼に関して、宇野氏は、政策の結果に対する責任を負うシステムが民主主義にとって不可欠だと述べている。

 

では、誰がどのようにして責任を負うのだろうか。

 

政治家や議員を選ぶのは市民である。また、政治家が提案した案について会議を重ね、採用するかどうかを決めるのは議会である。

 

そこで、議会の責任が問われるべきだと先生が言っていた。

なるほど。

 

 

さらに、議会や行政が政策の結果について分析し、情報を公開することが今の日本にとって重要だということも指摘してくれた。

 

つまり、市民は行政などが公表したデータに基づき、適切な政策が行われているか判断したうえで、政治家や議員を選ぶ。そして、議員らは市民の声をしっかり受け止め、議論を交わし、政策を決定する。

 

このような流れが繰り返されると、政治と市民の間に信頼関係が生まれる。

市民の政治参加への動機が高まる。

 

また、市民の政治について判断できる知識や能力を培うことが可能になる。

 

こうして成熟した民主主義国家をつくりあげることが、緊急事態においても市民が納得できる柔軟な政策を実行することにつながるのだろう。

 

 

とにかく政策の結果について公表することだ。簡単なことじゃないか。

イメージが先行しがちな「移民」の議論

芦田愛菜ちゃんの「まなの本棚」で、まなちゃんと作家の辻村深月さんがスペシャル対談をしている様子が掲載されていた。

 

辻村さんの作品のつくり方やまなちゃんの役作りについて深堀されていて感激だった(語彙力)

 

それにしてもまなちゃんの核心をついたコメントには毎度驚かされる。(語彙力)

 

まなちゃんの本を読んで、生まれてはじめて「小説を読んでみたい」と思った。

人の心を動かすことができるってほんまにすごいことだと思う。

 

一方で、人そのものを動かすことも一筋縄ではいかないようだ。

2010年代に活発に行われた移民の議論は、いまだ決着がついていない。

 

ベンジャミン・パウエル編著の「移民の経済学」は、各章を異なる研究者が担当し、厚生経済学、財政、文化、グローバル化など様々な視点から移民が世界にもたらす影響を論じている。

 

移民の経済学

移民の経済学

  • 発売日: 2016/10/28
  • メディア: 単行本
 

 

テレビなどの議論では、移民が移民先の国の社会保障を食いつぶすとか、雇用を奪っていくとか、そういった議論がなされることが多い。

そうした現象は現に起こりうるし、腑に落ちる説明のように思われる。

 

しかし、それはいったいどんなエビデンスに基づいた主張なのだろうか。

 

この本を読めば、上記のような主張に対して、どうして疑うことなく過ごしてきたのだろうという後悔のようなものが湧き上がってくる。

 

多くの研究論文で、「移民は世界の経済にプラスの影響をもたらす」ということや、「移民は財政赤字を減少させる」、「移民によって賃金の下落はもたらされない」といった分析結果が発表されているというのだ。

 

もちろん、それらの分析は計量的に行われている実証研究が多いため、あくまで設定されたモデルを前提とした結果に過ぎない。実体経済との乖離は少なからずある。

 

しかし、イメージだけで議論をすることがどれだけ無意味なことか。

なんなら、移民を受け入れないことで私たちは損をしている可能性だってある。

 

この本はそうしたシミュレーション分析のみならず、その政策的含意を引き出すことにも重点を置いている。

 

ただし、全体的にかなりぶっとんだ政策提案が多かったと感じた。

 

例えば、ビザを割り当てる際に価格付けをするという提案や、完全に自由な国境開放を行うといったものだ。

 

さすがに…こーれは…むりでしょっw

 

考える材料としてはすごくいいとは思いますけども。

 

 

ともかく、移民に関してはあらゆる要素に不確実性が伴うので、なかなか議論もしづらいし、一歩踏み出す勇気が出ないという側面があるのかなという感想を持った。

 

実際、各章を担当する専門家らの間で、主張はずいぶん異なっているように思う。

いろんな意見を知ることができるという面でもこの本は読む価値があるだろう。

 

先週、政策決定は専門家が全面的に担うべきだと、かたくなに主張していたゼミ生は、今回の本を読んでもなお、その考え方は変わらなかったのだろうか。

市民は完全に専門家にゆだねるべき??

食材はなるべく国産を買うようにしている我が家。

 

昨日、今まで食べていたもち麦に原産地表示がないことに気づいた。

表示くらい書かんかい。

 

QRコードを読むと、「アメリカ、カナダ」と出てきた。

 

QRコード入れるほうがコストかかってるやろw

 

原材料表示の「大麦」の隣、空いてますよ

 

って言ってほしかったんかなーーーー('ω')

 

外食や中食の原材料は外国産に頼っている部分が多いから、コロナで外食の機会が減っているということは、日本の食料自給率も一時的に上がったりしたのだろうか。

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さて、昨日はゼミで「持続可能な未来のための民主主義」(足立幸男,ミネルヴァ書房,2009)を輪読し、議論した。

 

 

持続可能な未来のための民主主義 (環境ガバナンス叢書)
 

 

この本は10名ほどの学者がチームを作り、

どんな人たちが、どんな方法で環境政策をつくれば、環境問題をうまく解決できるのか

について各々が多角的な視点で論文を書いたもの。

 

7章は、文章も読みやすく、内容もじっくり考えさせられるようなものだったのでおすすめです。またこれについても書きたいなぁ。

 

さてさて、

「どんな人たちが、どんな方法で環境政策をつくれば…」

これは、「環境ガバナンス」と呼ばれる民主主義的概念で、

幅が広い観点で議論がなされている。

 

多くの人はこれまで、民主主義システムについて懐疑的だと思った経験があるだろう。

 

「今の選挙って本当に民主主義的といえるかな?」

「多数決で決めていいことなのか…?」

「知識がない市民がまちの議論に加わって大丈夫なのか?」

 

挙げていくときりがないほどだ。

 

実は環境問題の解決においても、

その特徴がゆえに民主主義に関わる問題がつきまとう。

 

その特徴とは主に次のようなものだ。

 

1つは、問題のわかりにくさ。

地球の変化も、環境問題の緊急性もよくわからない、という人もたくさんいるだろう。

知識のないまま議論に参加し、政策決定を行うとなるとやはり不安がある。

しかし、環境問題は複雑なため、ちょちょいと勉強すればわかるようになるものでもない。

私なんて5年も勉強しているのに、わかったという実感は1ミリもない。

 

2つ目は、将来世代の人々にもかかわる問題であること。

タイトルにあるように、「未来」についての議論が必要になる。

しかし、今を犠牲にして将来のために残すor投資するといったことは、人間が最も苦手とすることの1つだ。

 私なんて「明日のおやつに」と買った芋けんぴをその日の夜全部食べてしまうありさま。10年先のために今は我慢するなんてことはブッダイチローくらいしかできないんのでは。

 

だから、よく議論になるのは

「専門家に政策決定してもらえれば一番いいじゃん。市民はそれに従う。

なんで民主主義的だとか言って知識のない住民と話をしないといけないんだ?」

という意見について。

 

かなり割り切った意見のように思えるが、私以外のゼミ生全員がこの意見を強く主張していた。一時期、私もそのような考え方をしていたことがあった。

※院生の1人は中国人の方なので、そう考えるのも不思議ではないが

 

私を含めて、民主主義的プロセスを支持する人の意見は以下の通り。

  • 確かに、住民の知識と政策決定に必要な知識の間には差があるが、それを埋めてより良い議論ができるようにするのが専門家の役割。
  • 普段は地道に研究し、いざとなったとき、住民が望むような結果に近づくよう、政策のアドバイスや修正を行うのが専門家。
  • 環境政策をうまく実施するためには、人々の協力が必要な場面もある。人々の自由な選択が尊重される社会では、人々が協力してくれるよう、政策にある程度納得してもらう必要がある。

自分たちのまちなんだから、自分たちの望むまちにしたい。

住民がそう思うのは当然のことだ。

 

そうした住民のニーズをどうすれば満たすことができるのか。

専門家はその道しるべの役割にとどまるくらいがちょうどいいのかもしれない。

 

痛みを恐れずに

最近新聞を取るようになった。

毎朝ポストに新聞が届くなんて貴族になった気分。

 

私はこれまで毎日新聞を読むためにありとあらゆる方法を駆使してきたが、その労力が必要でなくなったのだ。

朝になれば、ポストに行くだけで新聞が手に取れる。

貴族のような優雅な気分だと思ったのだ。

 

それでもやっぱりこういうときに貴族という言葉が出てくるのはなんだか悲しい。

新聞配達の仕事はお金に困っている人がやってくれている、というイメージが少なからずどこか自分の脳裏にあることを認識させるから。

 

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昨日の日経新聞(朝刊)の6面「エコノミスト360°視点」の『財政持続性の「賢い支出」頼みは禁物』(みずほの研究所の人が書いている)という記事で、長期的な視点に基づいたインフラ整備などへの財政支出に対する批判がなされていた。

 

内容としては、

政府はイノベーション促進やグリーン社会への移行のため、財政支出を伴う長期的な目標を設定しているが、そうしたいわゆる「賢い支出」は必ずしも国の成長に寄与するとは限らないため、歯止めがかけられるシステムの構築なしに巨額の歳出を認めてしまうのは適切でない

というものだ。

 

インフラ投資を伴う国の政策は、企業の生産性に大いに関わってくる。 

 

そもそも日本では製造業中心から高付加価値の産業への移行において、他の先進国にかなり遅れを取っており、その原因として製造業温存政策と未来のためののインフラ投資の不足が挙げられる。

 

欧米は、より高付加価値の産業を中心とする経済システムにとっくに移行しつつある。

そうした国々では、2050年に向けての長期計画の策定を行うのがトレンドとなっている。

また、ヨーロッパではコロナからの経済復興のため、グリーンリカバリーを掲げており、ちょっと情報は古いが、昨年6月時点で欧州委員会が89兆円(2027年まで)の復興基金案を提案していた。

 

あまり広くは認識されていないと思うが、こうした「賢い支出」は日本の未来を左右する大きなトピックであり、国の生産性にかかわる議論は近年活発に行われている。

これまでの金融政策にみられるように、行き当たりばったりの計画では国は滅んでいくばかりである。

 

ちゃんと生産してちゃんと稼いでちゃんと市民の生活が向上する。

この一見当たり前の経済システムを手に入れるには、長期的なビジョンが欠かせないのだ。

 

ただ、この記事の主張にあるように、本当に「賢い」支出かどうかはその中身を見てみないとわからない。

 

政府やメディアが「賢い」という言葉を使って市民の目をくらませていないか。

コロナ対策で必要な財政支出の議論が後回しになっていないか。

国会での議論をチェックする必要があるのは確かだ。

 

しかし、私がこの記事で注目したのは、未来への投資が行われることのデメリットについて書かれている箇所である。

 

グリーン社会への移行には、…(中略)既存の技術やビジネスモデルの価値低下というマイナスの面があり、経済全体としての成長率が高まるかどうかは不確実である。

 

確かに、新たな経済構造への移行は痛みを伴う。

しかし、そのような痛みを伴う移行を躊躇することは、未来に痛手を先送ることになりかねないのではないか。

 

そうであるとすれば、その移行において、痛みを被る人々を救済し、経済成長過程で活躍できる人材に育てていくことも政府の役割となるのではないか。

 

思い切った政策転換の必要性については、近年多くの人が提言している。

具体的な政策提言については賛否あると思われるが、その方向性にはかなり説得力がある。

 

デービッド・アトキンソン著「日本人の勝算」

●諸富徹「資本主義の新しい形」

●野口悠紀「平成はなぜ失敗したのか」

 

など…

なぜ痛みを伴ってでも大変革が必要なのか。

もう一回読んで整理したいな。

我が道を行く活動家が政治を変えていく

環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんが自閉症スペクトラムを抱えていたということを知った。

 

自閉症スペクトラムの人は、言葉をそのまま受け取ってしまったり、他の人と協調するのが苦手だったりする。

 

グレタさんは小学生の頃に環境問題について知って以来、心を病んでしまうほどそれらの問題を深刻にとらえていた。他の人が何と言おうと、グレタさんが自分がもっている危機感や怒りを社会の人々に共有しようと活動するようになったのは、自閉症と深い関係があるかもしれない。

 

近年、特に欧米では、政治や大企業など力をもつ大きな組織にとって、政治に対する人々の価値観や困っている人々の声をは無視できないものとなってきている。

すごいことだと思う。

 

グレタさんらが行うデモは世界中で若者の共感を呼んだ。また、今日の日経新聞には、オーストラリアの大手年金レストに気候変動への取組について情報開示を行うよう、たった1人の若者が訴えたという話が1面に掲載されていた。

 

このような行動を起こす人について、周りの人々は「変わった人」だととらえがちだと思う。

 

多くの人は、政治や大企業の力に圧倒され、無力感を感じている。

たった一人の声なんて何の役にも立たない、そう思っている人も多い。

 

つまり、自閉症を持つグレタさんだからこそ、大胆な行動を起こし、人々を共感の渦に巻き込めたのかもしれないということだ。

 

しかし、ナオミ・クライン氏は「地球が燃えている」の中で、以下のように説明している。

以前は、社会運動と弱小国の政府がこのような要求をおこなっても、まるで政治的な真空に向かって叫んでいるようなものだった。…(中略)しかし、いまはもうそんなことはない。現在では合衆国やヨーロッパをはじめ、さまざまな地域に政治家のブロックが存在する。 

 このあと、アメリ連邦議会の議員にも草の根活動に熱心に参加する人がいるということが紹介されている。

 

グレタさんのような行動を起こすための勇気がないという人でも、欧米で広まりつつある価値観やチャンス、機運が、その行動を起こす一歩をサポートしてくれているのかもしれない。

 

心配でならないのは日本だ。

草の根活動はたくさんあるだろうけれども、政治にはたらきかけられるほど、人が集まり、力をもっているとは言えない。

 

残念なことに、日本人同士の間には同調圧力が強くかかりがちである。「空気を読む」という日本語があるのも象徴的だと思うが、こうした文化・価値観が、人々の声を大きな力に対抗できるほどのものに育てていく過程で障害になってしまっていることは容易に想像できる。

 

日本は同調圧力を乗り越えていくことはできるのか、もしくは同調圧力が生み出す結束力を活かした、日本流の方法を探っていくことはできるか。

 

少なくとも私はグレタさんのような生き方にあこがれるなぁ。

 

 

スティグリッツ 「プログレッシブキャピタリズム」感想

久々すぎる投稿。どんな感じで(口調とか?)書いてたか忘れた。

 

以前の投稿は大学院に入る前だったはず。

 

全く投稿をしなかった2020年は,本の読み方と現代社会の姿が徐々にわかった一年だったと思う。

 

 

さてさて,今回のゼミで読んだのは,経済学界では超超有名なスティグリッツが2020年1月に出版した「プログレッシブキャピタリズム」である。

 

自分の学科の名前も英語でスッと言えないレベルで英語が苦手な私には,スティグリッツがこの本で何をおっしゃるつもりなのか題名からは全くわからん状態でスタート。

 

でも内容はとってもシンプルだった。翻訳もわかりやすかった。ありがとう!

 

この本のテーマを一言でいうと,「ごっつひどい格差社会をどないかするためには,経済政策だけではなく,政治を変えながら,資本主義の弊害と戦っていかなければならないんだぞ,わかってんのか?あぁ??わかってねーだろぉ!富裕層お前らにもいいことなんだぞ?みんな全然そんなことわかってないんだもんだから変わんねーんだよ!でも本気出せば変えられるんだからな!」です。

 

大げさに書いてるように見えるかもしれんが,そんなことはない。

 

トランプ政権が生んできた格差,過剰なお金儲けえいえいおー活動,社会の分断に対しスティグリッツが抱いている怒りが本書で垣間見れる。

 

指導教諭に教えてもらったんだが,スティグリッツクリントン政権時代に行政サイドにいて,いろいろ提案したけど政治の力でゆがめられてしまった経験がたくさんあるんだろうということだった。そりゃ腹立つわ。

 

人々の努力によって経済学研究が発展しても,それが全く生かされない社会。

生まれた時からチャンスを与えられ,市場を独占するのに成功した者だけが政治を動かす力を持つ社会。

貧困から抜け出すチャンスすら与えられない人々。

 

スティグリッツも言っていたけど,人々の無力感が社会を変える力を,悪い政策の抑止力を減衰させている。

 

まずは,企業献金や,市場競争力を阻害する政策など悪い政策は排除すべきであるということ。同時に,選挙制度や政治家の説明責任を遂行させるための制度など,民主主義を守っていくための制度の変更が必要で,富を再配分する制度を強化させるべきだということもスティグリッツは言っている。

 

そうしないと,政治に対する不信感,無力感といったものは除けないし,今のままではいい方向に政治を動かすのは難しい。結局経済政策を決めるのは政治なのだから。

 

 

ところで,ゼミで議論になったのは,格差をなくすことが富裕層にとってどんなメリットがあるのか,ということだった。

 

これは重要な論点だと思った。だって富裕層や政治家にとっていいことがないと,社会に良いというだけでは動いてくれないから。(ほんとは政治家は社会のために動くべきなんだけどねぇ全く…)

 

一番説得力を感じたのは,スティグリッツの「経済成長に必要な人的資本が損なわれる」と,指導教諭の「貧困が広がると,治安が悪化するなど,富裕層のQOLにもかかわってくる問題がでてくるので,格差をなくすことは富裕層にとってもいいこと」だった。

 

他のゼミ生は,このスティグリッツの主張について,「そんなに人的資本が損なわれることって経済的に大きい打撃なの?」みたいなこといってたけど,指導教諭は「近年は高付加価値の産業(つまりサービス業やIT系の産業のような,肉体労働ではなく知識の必要な産業)の発展が国の経済成長を左右しているので,人的資本への投資は重要だ」といっていて,さっすが先生,そうだそうだ!ってなったよね。

 

この本を読んで改めて市民が政治や経済の事を理解することの難しさを感じた。

格差に関する価値観って本当にやっかい。

アメリカにはびこる「アメリカンドリーム」の価値観に対し,経済学者はエビデンスをもって人々の認識を変えていくことができるか試されているように思う。

 

 

この本わかりやすいし,「私ら働いてお金もらってるのに生活保護でお金もらってる人許せない」的なこと言ってる人に読んでほしい。まじで。